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想起、忘却

夕凪翼

ルミア島の研究所、研究員なら誰でも入れる資料室があった。埃を被ったその片隅にはいくつかの手記が保管されている。様々な筆跡が入り混じったこれらは全てこの島で研究をする科学者たちが残したものだ。ある研究者は自分の考えをまとめるため、あるいは記録しておくため、はたまた後に誰かに伝えるために手記を書いた。

私はそのうちの一冊を手に取って優しく埃を掃った。この一冊だけでもここに積もった埃よりずっと厚く堆積した記録が眠っているのだろう。私は資料室に置かれた簡素な椅子に掛けて表紙を開く。少しでも実験の役に立つ情報を見つけるために私は静かに文字を目で追い始めた。

 

***

 

 

記憶は人格を構成する上で重要な要素だ。海馬で作られるそれは現在に影響を与え、危険を回避したり物事をスムーズに進めたりするのに役立つ。

記憶はいくつかのプロセスに分けられる。脳に情報を取り込む『記銘』、取り込んだ情報を脳内で保存しておく『保持』、保持した情報を検索し思い出す『想起』、そして記憶されていたことを想起できなくなる『忘却』だ。ほとんどの人には難なくこなせるこれらのプロセスだが、17M-RFT30(ナタポン)はPTSDによりその過程のいずれかで時折エラーを起こしていると考えられる。彼はそれを少しでも補うためにカメラやノートを用いて出来事を記録する。物理的な記録は情報を見つけるのに時間はかかるかもしれないが、記録さえちゃんとしておけば自然に忘却してしまうこともない良い方法だ。しかし物理的な記録媒体にも弱点がある。壊れたり失くしたりすればその内容はあっさり失われてしまうことだ。

実際17M-RFT30(ナタポン)のノートが17M-RFT29(アドリアナ)に燃やされてしまったことがある。もちろん記憶障害とはいえすぐに記憶を失くしてしまう訳ではないため、しばらくは仲間の元に戻ろうとしていたが17M-RFT29(アドリアナ)が設置した罠にかかり、そこから抜け出すまでには島での出来事を全て忘れてしまった。その後、その実験で仲間であった16M-RFT19(キアラ)が発狂しているところに遭遇したが当然近寄ろうとはしなかった。

もしノートがあれば彼女のことを落ち着かせようとしていた可能性もあっただろうが、それもない状態ではただ危険そうな知らない人間としか思えなかったのだろう。全て忘れてしまったことは一見不利だったように思えるが、先入観のない状態で危険を判断できたとも捉えることができる。

 

私は記憶障害がもたらす有利不利に関して詳しく検証することにした。まずは物理的な記録媒体からの影響を排除するため、実験前にあらかじめ細工しカメラは壊しておく。取り上げないのは余計な不信感を与えないためだ。ノートに関しては他の実験体に破壊を依頼する。お金をチラつかせれば大抵のことは引き受けてくれる16M-RFT23(彰一)辺りがいいだろう。またカメラの修理も妨害する。これで下準備は完了だ。後は観察していくだけである。

この実験の申請が通ったらすぐにでも実行に移そう。実験を繰り返して少しでも多くのデータを積み重ねることが新人類への第一歩だ。

 

 

 

 

2017/××/██ 記憶障害の影響調査一回目

アイソルのトラップにより死亡。大抵の罠は器用に避けたり上手く抜け出したりしていたが、実験後半に作られた致死力の高いトラップにはひとたまりもなかった。しかし幸いこちらがリセットせずともこのことは全く覚えていなかったのでトラウマにはなっていないようだった。他の実験体ならば次の実験で地下から出てこれずに爆殺されていたところだ。

生存こそ叶わなかったが悪くはない。引き続き実験を続けよう。

 

2017/××/██ 記憶障害の影響調査二回目

アドリアナに燃やされたノートを取り返そうとして焼死。よほど自分の記憶力を信用できないらしい。命を落としてまで取り返したい記録とはなんだったのか、ノートも全て燃えてしまった今は分からない。 

 

 

2018/××/██ 記憶障害の影響調査五回目

初めてノートやカメラがない状態で生き延びた。仲間に恵まれたのも幸運だが、やはり自然と動けるレベルで刻まれた拳法の技は強い。誰にカメラを教わったか覚えていなくてもカメラの使い方は覚えているように、動きは繰り返せば身につくようだ。

引き続き実験を行う。

 

 

2019/××/██ 記憶障害の影響調査 n回目

ノートやカメラを使用できないことに起因するかは分からないが実験中に突然発狂した。該当部分の記憶データのバックアップも壊れていて再現ができない。

何かここから手がかりが掴めそうな気がするのだが、残念ながら私の任期はこれまでだ。この後も後任が実験を続けられるように引き継ぎの準備をしなくては。

 

 

 

 

 

 

私は前任の手記をパタリと閉じた。そして今日の17M-RFT30(ナタポン)の様子を思い返す。今日の実験で17M-RFT30はこの手記の最後のように発狂した。そしてその状態で最後の生存者となった。実験が終わっても全く話を聞かず指示に従わない彼には鎮静剤が打たれた。今はすっかり眠らされているだとう。

「記憶障害における生存の有利不利、ね」

前任者から引き継いだその実験を私は形を変えながら続けている。私は今日その実験の結果で最悪なものの一つを見た。彼は生き延びたが、あの発狂を放っておけば間違いなく私たち研究員が回収する前に自ら死んでいただろう。しかし生存ゲームで生き延びたこと、発狂して自死を選びかねない状況になったことと記憶障害の因果関係は一切証明できない。生き延びたのに発狂した原因は何か、目を覚ました彼はきっと忘れているだろう。脳波から高いストレスに晒されていたことは分かっても、そのきっかけとなる出来事がどれだったのかはあくまで推測しかできない。これからもいつまで続くか分からない実験の過程を想像して私は一つため息をついた。そして思案する。

記憶というのは『記銘』『保持』『想起』『忘却』というプロセスから成り立つ。保持していた記憶を想起できなくなるのを『忘却』と呼ぶのなら、実際のところ脳内に記憶は保持されているままなのではないだろうか。記憶は未知の領域だ。全てを調べることは叶わないが、本当はこれまでナタポンが歩んできた人生というのは彼の脳内に保持されているのではないかと考えずにはいられない。

「辛いことは都合よく忘れて生きていける、でも生きるのに役立つことは都合よく覚えていたい。新人類はそういう生き物になれるのかしらね」

誰もいない資料室で呟いた独り言に、当然返事は返ってこない。ただ埃っぽい空間に私の言葉だけが空しく響いた。

私は前任の手記を一度横に置き、別の本棚から膨大な実験データが記された資料を引っ張り出した。そしてそれを片手に私は次の実験の準備を始めた。全ては新人類を創造するため、全ては人類の未来のため。私がいるアグライアという組織はそのために存在するのだから。

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